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もっと知りたい 黒豆知識

「丹波黒」のいわれから雑学まで、
ちょっと意外な黒豆知識をご紹介します。

※謂れ(由来)などには諸説あります。

もっと知りたい 黒豆知識

「丹波黒」のいわれから雑学まで、
ちょっと意外な黒豆知識をご紹介します。

※謂れ(由来)などには諸説あります。

古くより多くの人に
愛される丹波黒

江戸時代中期・正徳元年(1711年)ごろの史料『篠山封譚誌(ささやまふうたんし)』には、黎豆(くろまめ)が篠山藩の土産とされていたことが記されています。
また、江戸時代中期の享保15年(1730年)ごろに出された料理本『料理網目調味抄(りょうりもうもくちょうみしょう)』にも「くろ豆ハ丹波篠山名物なり」と記されていました。
さらに、寛政11年(1799年)ごろの『丹波国大絵図』にも、丹波国の名産として黒豆が紹介されており、江戸時代には既に、広く人々に愛される名産品に育っていたことがわかります。

古くより多くの人に愛される丹波黒 イメージ

幕府の将軍を唸らせた逸品

江戸時代、篠山(ささやま)藩主が兵庫県篠山市にある川北に狩りにやって来たとき、狩りの合間に昼食として庄屋の家で黒豆を食べました。
藩主は、その美味しさに大変感心し、「米のかわりに年貢として納めることを許可」するだけでなく、庄屋に命じて質の良い黒豆を栽培させ、篠山藩においてさらに選別して時の江戸幕府将軍にも献上したそうです。
また、将軍も黒豆の味を大変気に入り、数多くの家臣に振る舞いました。
あまりの美味しさから評判になったことで、江戸中に「丹波の黒豆」が知れ渡ったといわれています。

宮内省も認めた、丹波黒の輝き イメージ

宮内省も認めた、
丹波黒の輝き

江戸時代後期から明治時代にかけて、現在の兵庫県 篠山市 日置地区の豪農で大庄屋(※1)の、「波部六兵衛」と跡継ぎの「波部本次郎」によって、優良な黒大豆の種が作られました。その時代は「波部黒(はべぐろ)」(※2)と名付けられ、栽培が奨励されていました。
この「波部黒」は明治時代に開かれた博覧会に出展され、「粒の形・色合い・味、いずれにおいても日本一」と審査官に絶賛され賞を獲得。宮内省(現在の宮内庁)御用達品としても買い上げられることになり、「波部黒」の評価はより一層高まりました。

※1 大庄屋(おおじょうや)・・・江戸時代、地方行政を担当した村役人の一つ。
※2 「波部黒(はべぐろ)」・・・現在の丹波黒のルーツともいわれている。

中国では昔から、
治療に黒豆が!?

昔から大豆は栄養がある食品として注目されていますが、古来中国では、黒豆も体に様々な効果を持つ薬として利用されてきたといいます。
中国の伝説上の人物で医薬と農業を司る神である「神農」が著したとされる医薬書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』にも、黒大豆が病気の治療に適した食物として記されており、実際に中国では「黒豆衣(こくずい)」と呼ばれ、生薬として利用されてきたようです。
さらに、400年ほど前に中国で編纂され、日本の薬学に多大な影響を与えたといわれる中国、明代の代表的な本草学研究書『本草綱目(ほんぞうこうもく)』にも黒豆の効能が記されています。

武士のパワーの源は黒豆!?

戦国時代には、武士や忍者たちが戦場の非常食として「兵糧丸(ひょうろうがん)」と呼ばれるものを持参していたといわれていますが、実はこれは黒豆など(武将によって材料や製造方法が異なるため、他にもそば粉やキビ粉などがあります。)を原料として作っていたものといわれています。
名だたる戦国大名たちも、その時代に黒豆を食して、天下取りの苦しい戦いを乗り越えていたのかもしれません。

武士のパワーの源は黒豆!? イメージ
黒豆はグルメ向き食材? イメージ

黒豆はグルメ向き食材?

水戸黄門こと徳川光圀は、日本で初めてラーメンや餃子を食べたという逸話がある今でいうグルメな人。晩年の水戸黄門が黒豆でできた納豆を食したという言い伝えも残っています。

希少品として人気の黒枝豆

黒枝豆とは、丹波黒黒豆の収穫期である11月下旬~12月初旬ごろより前の「黒豆が熟す前」に収穫した状態を指します。解禁時期には全国から黒枝豆を求めて渋滞ができるほどで、希少品として大人気です。一般的な枝豆の収穫期間は1か月程度であることに比べ、黒枝豆は、10月初旬ごろから、2~3週間の間しか収穫することができません。
少し黒みがかった緑の豆は、歯ざわりがよくコクのある味わいで、一般的な枝豆に比べて甘みが強く、多くの人に愛されています。

希少品として人気の黒枝豆 イメージ